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患者・家族皆さんの声

  会報誌「CMLとともに〜それぞれの想い」には、
  グリベック、タシグナ、スプリセル、ボシュリフ、アイクルシグでの治療や、
 移植を経験した患者の声を掲載しています。
  ご希望の方はご連絡ください。

  以下の患者の声は、主に、分子標的薬がグリベック(一般名 イマチニブ)のみだった当時のものです。

患者の声 1

初めてメールいたします。
私は現在43才の女性CML患者です。

先日、朝日新聞で「患者を生きる」の連載でCMLもとりあげられ
つばさの方にメールを送ったところいずみの会が発足したことをお聞きしていました。

九州在住で乳児を抱えて仕事もしておりますので、残念ながら参加はできそうにありません。
でも、皆さんに勇気づけていただいた一患者として、
もしお役にたてるのならとメールを送らせていただいた次第です。

2005年11月にCMLと診断され、グリベックを同年12月15日より4錠で開始しています。
嬉しいことに、2006年6月にはGバンド法で0/20となり、
同時に採決したPCR法(TARGET負担です)でも「検出されず」の結果でした。
グリベックのみの内服継続で分子遺伝学的寛解に至っていました。

 仕事は病棟勤務の看護師をしていました。
2006年2月には職場復帰し、配置転換も考慮してもらえたのですが年々厳しくなっていく勤務状況や
通勤時間や今後の家庭生活との両立なども考えるとこのまま続けていくのは夫とも相談した結果
無理と判断して2007年3月に10年以上勤めたその病院を退職しました。
そして、同年4月に自宅近くの病院に転職したのです。

ところが、退職した翌日に11年以上授からなかった二人目の妊娠がわかったのです。
グリベック内服中・高齢出産・転職直後という多重リスクを背負って
あんなに欲しかった二人目の子をこんな時期に授かったのです。

  血液内科の主治医には「妊娠には気をつけてね」と言われていました。
しかし、11年以上もできなかった私には「絶対あり得ない話」にしか聞こえなかったのです。
簡易検査の判定結果を真っ暗な気持ちで何度も確認し、近くの産婦人科で胎嚢を画像で見た瞬間、
現実を受け止め、決断しなければいけないことを実感しました。
「血液内科で診てもらっている病院に行って相談してください」と紹介状を渡されました。
夫と2人悩み、途方に暮れました。

 一番の原因はもちろんグリベック内服中の妊娠ということでした。
インターネットで調べまくりました。
グリベック掲示板はもちろん、グリベックの製薬会社や薬に関する内容をホームページを探しましたが
得た情報は「禁忌」の文字ばかりで、女性内服患者の出産は海外での7例の報告のみでした。
出産は100%無理だろうと覚悟を決めて、4月の月に一度の血内受診の日に産科を受診しました。

しかし、初めて出会ったその産科の部長医師の言葉は私たちの予想すらしないものでした。
持参した私の血液データーを見て、「このデーターを見る限りでは産んではだめですとは言えない
ですよ。」とても穏やかな優しい口調で答えられたのです。
そして、血内の主治医も産科と組んでフォローしてくださったのです。


私は自然分娩で無事に3036gの元気な女の子を出産しました。
夫も立ち会うことができました。
この産科の先生に出会ってなければ、今私の腕の中で眠っている娘には出会えなかったと思います。

現在、私は産後休暇明けで職場復帰しています。
新しい職場は入職後1年未満のため、育児休暇の取得ができなかったのです。
でも、働けることはいろいろな意味でありがたいとも思うのです。
これも運命と思って、同居している夫の母に預けて復職しました。

妊娠中の分子遺伝学的寛解も産後は続きませんでした。
初乳だけは飲ませてやりたいと先生方と話し合って1週間限定で母乳保育をさせてもらいました。
これは後から考えると正しい選択だったと思います。
出産後の内服再開直前の11月の採血ではPCR法で170という数値結果がでてしまったのです。
この結果は私にとってもショックでした。
しかし、12月のamp-cmlでは69(PCRでは138になりますよね)、
そして、先日の受診では1月の結果で50未満で検出されずの結果を得ることができました。

グリベック再開でまた寛解に持っていきたいと思っていましたが、本当に嬉しいことでした。
また、グリベックの効果も実感した経過でした。
これからもできるだけいい体調を維持して子供たちを見守っていくというのが
これからの私の課題となりそうです。

長いメールですみませんでした。
残念ながら出席できませんがオレンジの会の東京でのご盛会を心よりお祈りいたします。

それでは、失礼いたします             女性(43歳)

注)「オレンジの会」は「いずみの会」の旧称です

患者の声 2

会社の人間ドックで病気を発見されはや11年目。
告知されインターフェロン注射を週3回打っていましたが、いつかは急性転化するという医師の言葉におののき 絶望感に打ちのめされ 自分で自分を追い込み精神科に通った日々。
グリベックができ 認可されたお陰で今がある。
この病気は年齢に関係なく 発生する、若く人この病気になり思い悩む人達の何かお役にたてればと いずみの会に参加するようになりました。
生きてると いろんな事に出会い悩み喜びを感じる事こそまさに生きてる実感・・一緒に生きていきましょう。                     N.K (女性60歳)

 

患者の声 3

「普通」であることの幸せ

「それは」
それは2000年春でした。
毎年の婦人科検査を受けたところ、血液検査に異常値がある為内科で再検査を受けた方がいいと
電話がかかってきました。
軽い気持ちで再検査を受けましたが再度 異常値が。
血液内科のある病院を紹介され再々検査。 そしてマルクも。
結果はCMLであること、このまま治療しなければ急性転化して5年の命と告知されました。

「治療」
すぐに入院してインターフェロンの自己注射を始めました。副作用で高熱、頭痛、ひどい倦怠感、
筋肉痛が表れ食欲もなくなりました。
退院してすぐ仕事に戻れると思っていましたが、朝から晩まで具合が悪く結局その後2年間休職
せざるを得ませんでした。
インターフェロンの副作用はひどく、もう耐えられないと病院で話した時、 間もなく新薬が承認
されるのでもう少し頑張ってと言われ「あと少し、もう少し」と自分を励ましました。
インターフェロンの注射器でなくグリベックのカプセルを手にした時は本当に嬉しかったです。
そしてグリベックを飲み始めた途端、あんなに苦しんだ副作用が消えうつ状態だった心も晴れた
のです。間もなく寛解になり家族と涙を流して喜びました。

「更なる病気」
いつもの生活に戻り、復職もしてCML発病3年後の秋 お腹がひどく痛むようになり婦人科を
受診したところ今度は「子宮体がん」との告知でした。
長女が「何でママばかり」と泣きました。 子供達はまだ高校生と中学生。この子達がせめて成人
になるまでは死にたくないと心底思いました。

2004年1月、卵巣、子宮の全摘手術を受け、その後6クールの抗がん剤治療が始まりました。
副作用で血液の数値は軒並み下がり、グリベックは休止せざるを得ませんでした。
CML再発の恐怖と抗がん剤のつらさで心身共にボロボロになりました。
子宮がんのステージも悪く1年以内に再発する可能性が高いと聞き、ひどく動揺しました。
しかし、その後の度重なる検査でも再発の兆候は現れず「グリベック」が何らかの作用をして
いるかもしれないとの話でした。
事実はわかりませんが、又も生き延びることができたのでした。

「更に」
子宮がんの5年生存に向け2年が過ぎた頃、今度は甲状腺に腫瘍が見つかり、2006年6月
甲状腺摘出の手術を受けました。
この時も一時グリベックを休止しましたが前回の経験があった為、落ち着いて対処できました。

「そして今」
CMLを発症して9年目、子宮体がんは6年目、甲状腺は4年目の年になりました。
今は元気に仕事に家事、友達と旅行を楽しむ等、CMLになった当時には考えられなかった
普通の生活をしています。
あの時、グリベックがなかったら・・・
このような日は取り戻せなかったでしょう。本当に有難く感謝の思いでいっぱいです。
また長い闘病で得たことはつらかったことよりも良いことの方が多いと思います。
人の暖かさ、絆の大切さを実感し、何事にも感謝の気持ちを持てるようになりました。
自然の、季節の移ろいにも深く目を向けられるようにもなりました。
そしてあの時涙してくれた長女は嫁ぎ、孫にも恵まれました。
今の私はとても幸せです。                Y.O (女性50歳)
                 

患者の声 4

ある日会社で仕事していたら私の携帯電話に電話がかかってきました。
着信番号を見ると私の携帯電話に登録していない番号でした。
「○○病院ですけど先日の健康診断で血液のデータに少し異常があります。
今からこちらに来られますか?」
私は今から行きますと答え、「またか」と思いながら電話を切りました。
なぜ、「またか」なのかと言うと、一昨年は心臓の不整脈で去年は胃で再検査を
受けていたからです。

病院で医師から血液のデータについて説明があり血小板と白血球の数値が異常に
高いと指摘され、一度大きな病院で精密検査を受けた方が良いとのことでした。
確かに血小板が150万で白血球が2万とかなり高い数値を示していました。
私は紹介状を持って近くの大学病院に行きました。
まず医師の問診があり採血、尿検査、胸部のレントゲン、腹部のエコー、心電図
と病院内をたらいまわしにされ、もう一度医師のところに戻ってきました。
「今から骨髄の検査をしてもらいます。ちょっと痛いですが頑張りましょう。」
私は言われるがままに別室に連れて行かれ、胸に太い針をぐいぐいとねじ込まれました。
「1,2,3で骨髄液を抜きますので我慢してくださいね。1,2,3・・・」
今までに経験したことの無い変な痛みが胸全体を襲いました。
「いやぁ〜参ったよ、今日は一日病院内をたらいまわしだよ。極めつけは胸にブットイ針
さされちゃってさぁ」なんて面白おかしく妻と話したのを覚えています。


その日、私は仕事が忙しく先日の検査の結果を妻に聞いてもらう事にしました。
仕事を終えて夕方の5時位だったか、家に帰って「ただいまぁー」
二人の子供がニコニコしながらテレビを見て、妻はキッチンで夕食の支度をしていました。
「パパお帰り」子供達の声がします。
いつもと変わらない光景です。
しかし妻はこっちを向きません。
「どうだった?病院?」
妻は無言でオレンジ色のファイルを差し出しました。
目には涙がたまっていました。
そのファイルには何やら今まで私が聞いたことの無いカタカナいっぱい載っていて、
次の瞬間白血病という文字が私の目に飛び込んできました。

白血病??? そんなわけねぇだろ
そのファイルの白血病という文字を指差し、妻に「これか?」と問うと、コクリとうなずきました。
「死なないで」妻が言いました。
近くに子供達がいるということもあり、その時は医師がなんて言っていたのかとか深くは
妻に聞きませんでした。
いつものように家族4人でご飯を食べ、お風呂に入り子供と遊んでいましたが、妻から笑顔が
なくなっていました。
私はその夜、もう一度仕事に行かなければなりませんでした。
子供達を寝かしつけ玄関で「じゃぁ行ってくるね。俺が死ぬわけないじゃん」と言って車に
乗り込みました。
一人になると今まで経験したことのない感覚、それは恐怖なのでしょうか、真っ暗闇の中に
居るようでした。
いつも通りなれているはずの道や景色が全然違うものに見え空や木、無機質な電信柱やビル
までが私を見て「かわいそうだねぇ、もうすぐ死ぬんだねぇ」と話しかけてくる様でした。
人はいつか皆死んでしまう、それは頭では理解していても自分の死が間近に迫っていること
は受け入れられませんでした。
客先で仕事をしていても、ふと気が付くと「俺は死ぬのか」と考えていました。

どうにか仕事を終え、深夜に帰宅するといつもは暗い部屋に明かりがついていました。
妻がおきて待ってくれていました。
妻の顔を見た瞬間、目から涙がこぼれ落ちました。
「ごめんな、心配かけて」そんな思いで一杯でした。
その夜は妻といろいろな話をしました。
病気のことは勿論、二人の子供が生まれた時のこと、ファーストキスのこと、デートで妻が
始めて作ってきたお弁当は実は妻のお姉さんが作ったこと、結婚当初、私には消費者金融に
借金があってどうにか返済したことなど、最後は暴露大会のようになっていました。
そんな今だから言える笑い話をしているうちに、死への恐怖から解放されていきました。
気が付くと窓の外は明るくなっていました。
この人と結婚して良かったと心から思いました。


告知から数日経って、次女がにっこりと笑いながら何かを言いました。
何を言ったのかは覚えていませんが(多分かくれんぼしようとか、お菓子買ってとかだと思います)
ものすごくいい笑顔をしました。
これから何回この笑顔が見られるのかと思うと涙があふれ出たのを覚えています。
同時に子供の笑顔ってこんなにも可愛いかったのかと気づきました。
家族4人で食卓を囲んでいる時、もしこの食卓から自分が居なくなってしまったら、又自分以外の
一人でもこの食卓から欠けてしまったら残された三人は心から笑って過ごすことができるのだろうか
と思うと、四人そろっている事の有難さを痛感しました。
健康な時は家族四人で食事する、そんな当たり前だったことが今は幸せに感じる。
それはCMLが私にくれた大きなプレゼントです。


グリベックでの治療が一年半ほど経過した時、主治医に「グリベックが効いていないようだ。
骨髄移植を考えたほうが良い。」と言われたことがありました。
私はとても不安な気持ちになり、いずみの方々やつばさの橋本さんに相談しました。
同じ病気の人に不安な気持ちを聞いてもらえる、それだけで不安な気持ちが和らいでいきました。
多くのCML患者は患者同士で話し合うことがないと思います。
そこでいずみの会で患者同士が語らい、一人でも多くのCML患者が「よし、わたしも頑張るぞ!」
と前向きにこれからの人生を歩んでいければとてもすばらしいことだと思います。
                                                                                  K.Y  男性37歳

患者の声 5

私は、ただいま49才です。埼玉県ののどかな田園地帯で育ちました。
そんな私にも夢がありました。それは歌手になること。
歌のレッスンに通ってました。そう言えば、オーデションも受けたんだっけ。
私の年代だと山口百恵さんかな?大好きでした。もちろんドラマ赤シリーズも
全部見てましたよ。百恵さんのレコードも全部買ったしね。

そろそろ私も年ごろになり、美しくなりたい!と思う様になりました。
化粧品もどこのメーカーが良いか、迷っていた頃、テレビ、ポスターなどで、
美しい水着姿の女性が目に飛び込んできました。
小麦色に焼けた肌、すばらしいプロポーション・・・その名は、夏目雅子さんです。
カネボウ化粧品のイメージガールだったのです。私は、すぐにカネボウのお店に行って
買いました。私はファンになりました。切れ長の目、私は、夏目さんと同じ目にしたいと、
美容整形に行ったほどでした。結局、色々な人から「二重の方がいいわよ」と言われ断念しました。

引っ込み思案の内気な性格だった私。映画「極道の妻たち」では「なめたらあかんでよ!!」
のセリフには、びっくり。後で聞いた話ですが、これは、夏目さんが自分で考えたセリフ
だそうです。そのセリフを耳にしてからかな?私の性格も変わってきたような感じがします。
あれほど夏目さんのファンであったのに、夏目さんは、1985年にこの世を去りました。
白血病・・・なんてひどい病気なの?私はショックで食事も喉を通りませんでした。
白血病、この病気に関しては、だいたいの事は、認識してました。
その当時、白血病って言ったら、怖い病気、私は絶対こんな病気になりたくないなぁ・・・
と思いましたし、白血病って、ドラマや映画の世界だと、ずぅ〜と思ってました。

それが現実に私にふりかかってきたのです。発症は2002年10月特に身体がだるいわけでもなく、
症状は、ありませんでした。ただ、咳が2ヶ月も続く事が、6年ぐらいあったので、
それが白血病の前兆だったのかもしれません。
町の健診に行って2日後に「白血球が多いから病院で検査を受けて下さい」と言われ、
行ったのですが、その日に「今日入院できますか?」と先生に言われ、検査入院、
マルクをやりましたが、結局取れず慢性骨髄性白血病かもしれないと、
ただ言われただけで、採血した血液を大学病院に送り、後日、間違いない事がわかりました。
治療しなければ1年の命と言われ、CMLになってから6年経ちますが、グリベックによる
副作用は多少ありますが、日々を送れる事に感謝をし、いつになるかわかりませんが、
いつか完治する事を願い、楽しく前向きに人生を送っていこうと思います。
今の楽しみは歌のボランティアにて、おじいちゃん、おばあちゃんの前で歌って、
喜びを共にする事が出来る事です。
これからも、もっともっと交流を深めていきたいと思います。
逆に、パワーももらえるのでこれも私の活力源になっています。
                             S.S 女性49歳

患者の声 6

わたしは2001年に発病しインターフェロン、ハイドレア、そしていまはグリベックで治療しています。
いま普通に暮らせているのは感謝の気持で一杯です。
もちろん多少の副作用はありますが、2008年の2月からいずみに参加させていただいていますので
同病のかたとお話でき、いろいろな情報を得ることが出来心強い思いです。
発病当時はあきらめていた老後の心配を、そろそろ始めねばと思っています。
                            S.S 女性54歳

患者の声 7

はじめまして、グリベック歴1年半のものです。

 私はCMLが妊婦検診の血液検査でわかりました。
そのとき白血球は、26万で、慢性期といわれました。
即入院することになり、まず子どもをどうするか相談しました。
「このままだと血管がつまります。」と言われ、泣く泣くあきらめました。
まだ幼い娘たちがいたので、倒れるわけにはいきませんでした。
私を救ってくれた天使には感謝でいっぱいです。
そして、グリベックを開始し、妊娠をやめるとみるみる白血球は下がり、一週間くらいで
1万台になり退院できました。この薬が存在し、効いて、本当によかったと思います。
 
 今は副作用でたまに吐き気、足のつりなどありますが、
スポーツ飲料や運動で対処し、数値も落ち着いてます。
家族はだんだん私に持病があることを意識しなくなるのが不思議です。
でも、普通に生活できるありがたみを以前よりずっと感じるようになりました。
 
 いずみの会には2回ほど参加させていただきました。
病気に対する不安が、講義や会合により、だんだん解消しました。
そして、グリベックの先輩方のお話を聞くと、前向きに病気のことを考えられようになったり、
大変心強くなるものを感じました。本当にありがとうございました。

                                  女性 36歳

患者の声 8

 

 初めてお便りします。66歳、男です。
60歳で会社を定年退職しましたが、関連会社で65歳まで働きその後も、派遣会社に籍を移したものの同じ業務で働いていました。2003年からメイン業務として、中国・上海の合弁会社で技術指導を出張ベースで行っていました。その当時は、海外出張の度に健康診断して、異常がないことを確認しないと派遣されませんでした。
 それとは別に、父親が胃がんで49歳で病死しているので、人一倍、健康チェックを行い、年に一回の人間ドック検診を欠かしませんでした。2010年8月に技術指導で、中国・黒龍江省に出張に出かけました。中国出張は、60数回経験し、中国国内のどこに出かけても疲れを感じたことはないが、この時は非常に疲れを覚えました。

 帰国後、先の人間ドック検診で指摘された胸部の精密検査に出かけ、その時に他の病院でさらに精密検査するように奨められました。紹介された病院で検査入院することになり、入院前の血液検査で白血球が多く、急性白血病の疑いで緊急入院するよういわれた。
2010年9月に入院したのは、少しでも自宅に近い病院で、そこで血液や骨髄液検査を行い、CMLと診断されて、グリベックの服用を始めました。
僕の場合、このグリベック服用で骨髄抑制が効きすぎ、白血球数が下がりすぎてグリベックを休薬したり、再開したりと不規則な服用で、途中からは、白血球数を増やす皮下注射まで併用しておりました。その病院を1ヶ月ほどで退院し、通院で診察や皮下注射に切り替えていました。仕事は、その年の9月末で辞めまして療養を開始したが、12月末に感染症から高熱を出して、再度、2週間ほど入院したりしました。
 2011年2月になって、発熱から診察してもらうと白血球数が増えてきて、急性転化の疑いで緊急入院し、検査の結果、やはりCMLの急性転化期と診断されて、グリベックからスプリセルに変更して治療を開始したが、グリベックと同様に骨髄抑制が効きすぎて、休薬したり服用したりと治療方針が定まりません。

 当初、グリベック服用で慢性期を維持するのが、この病気の第一治療方針だと聞かされた。僅か5ヶ月で慢性期から急性転化期と悪化した原因が分からなく、さらに漫然と薬を変更しただけの治療にいささか疑問が生じて、そのころから、院内図書館で血液がんの本で勉強したり友人と相談したりして、結局、完治の可能性がある造血幹移植できる病院に転院する決意をしました。
今まで入院していた病院の主治医に転院の話を切り出したら、すんなり認めてくれて紹介状や今までの治療データを持たされて、2011年3月に転院しました。
 転院した血液内科の部長先生は、CMLの専門医でさらに、ここの病院の造血幹移植センター長です。その先生の診断は、スプリセル服用を止めて、まず抗がん剤治療で急性転化から慢性期に戻し寛解させるこれは、僕自身、移植の年齢制限を越えていたことが原因と思いました。抗がん剤治療は、3.5ヶ月間行い寛解に達した後、抗がん剤とスプリセルの併用が始まりましたが、この維持療法は引き続き2年間行うと言われて、一生背負っていかなければならない。
抗がん剤治療の副作用はいろいろあります。副作用は、頭髪が抜ける、手のしびれ、足のしびれがあります。あと、長期間の入院生活で体重の大幅減少、声が出にくい、皮膚障害など出てきました。後遺症は退院後も残っており、これは日にち薬みたいでしばらくは辛抱しなければならないかも知れないが、一番気になるのは、また、急性転化するのではないかという不安感です。急性転化となれば、入院し抗がん剤治療を受けなければならなく、身体へのダメージや精神的な落ちこみがあって、抗がん剤治療はかなりきつい治療です。病院で移植前後の抗がん剤治療で身体へのダメージが大きい人や、移植しても効果が得られない人を見てきていると、この移植もかなりリスクの大きい治療だと実感できます。

 当初、転院した理由は、この移植を受けて完全に治したいという想いがありましたが、この病院で現実を見るにつけて、慢性期を維持しQOLを得られれば、リスクの大きい移植を受けなくてもいいかなという考えに変わってきました。入院から通院治療に切り替わった現在、体力の回復を目指して自宅で静養しているが、ここまで回復できたのは、主治医や看護師、家族やお見舞いに駆けつけてくれた友人たちの励ましに負うところが大きく、心より感謝しております。
いずみは、CMLが発症した2010年9月末に入会しました。同じ病気の人たちと情報交換したくフォーラムにも参加したいが、遠方だとなかなか出かけるわけにはいかないです。そこでインターネットだと居ながらにして情報が得られやすいので、この患者の声に投稿し、同じような悩みを抱えている人と交流したいと考え、拙い文ですが報告させてもらいました。今後ともよろしくお願いします。
三重県在住 I.K(男、66歳、無職)

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